あの日



(19) あの日のこと


類が詳しい事情を知ったのはあきらを通じてであった。 類としてはこれまでのいきさつを敢えて調べなくてもいい、そういう気持ちで調査はしていなかった。 しかしあきらはそうでなかった。 総二郎と話し合って、類は事実を知るべきだと考えた。 司の居所については自分や総二郎の調査網だけではなく、滋にも桜子にも協力を頼んだ。 司のスケジュールを知ることは至難のわざではあったが、この4人の力を以ってしてはさすがの道明寺楓も隠しきれなかった。

「見つかったんだって」 総二郎が興奮して言う。
「まあな」 あきらには珍しく得意そうな表情がほんの少し浮かんだ。
「どこにいるんだ?」
「あちこち動き回っている。 アメリカとヨーロッパで」
「どういう積りなんだ、あいつ?」
「司のかあちゃんが表に出さないようにしているようだ」
「それで、どうする?」
「俺、会いに行く」
「おい、俺も行くぞ」
総二郎はつくしをあんな目に遭わせて逃げ回っている司が許せなかった。 しかしあきらがここまで熱心になるとは、予想外だった。

「お前、どうしてそんなにムキになるんだ、あきら?」
「お前だってそうじゃないか」
「ただの好奇心さ。 それに後学のためにさ」
「そうじゃないだろう? 司が許せないんだろう」
「まあな。 一途に惚れこんだ牧野が哀れでさ。 類はもうどうでもいいなんて言ってるけど、俺たちだけでもその原因を知っておいてやらなきゃ」
「俺もそう思う」
あきらの声はジャズの音に消されそうなほど小さく、総二郎に届いたかどうか分からなかったが、あきらにはそんなことはどうでもいいことだった。
「司は知ってるのか、今の牧野の状態を?」
「知らないと思うよ。 少なくとも記憶喪失のことはな。 知ってて放っておくなんて、いくらなんでもそこまではしないだろう」
「分かんねぇぞ。 あのかあちゃんがついてたら」
「司もいつまであんなお袋さんの言うことを聞く積りだろう?」
その時、まだ事情を知らない総二郎は、とにかくつくしのストレスの原因を知ることが第一、第二はつくしの現在の事情を教えて、司がとんでもないことをやらかさないよう言い聞かせることだと思っていた。

二人はジュネーブで司を捉まえることに成功した。 ホテルのロビーで司が入って来るのを待ち構えていた。 司は三人の黒づくめのボディ-ガードを従えて、大股で玄関ロビーを歩いて来た。 日本でよく見た馴染みの姿だった。 それまでソファに座っていたあきらと総二郎は同時に立ち上がった。 周りにいるヨーロッパ人に比べても遜色のない大柄な二人が立ち上がる姿は司の目に留まった。 二人を認めると、司は驚いて立ち止ったが逃げはしなかった。 司に近付くあきらと総二郎をボディ-ガードが止めようとしたが、司はそれを制止した。 あきらと総二郎は司が頷くのを了解の合図と取って、三人は一言も言葉を交わさないまま、司の部屋まで行った。

「よく分かったな、ここが」
「司、お前逃げてんのか、俺たちから。 いや、世間から?」
「別に。 いちいちスケジュールを公開しなきゃいけねえか?」
総二郎の怒りのこもった言葉にも司は平然としていた。
「全然連絡が取れなかったのはなぜだ?」 あきらが低い声で尋ねた。
司はそれには答えず、両手をソファの背もたれに掛けた。 顔には薄笑いが浮かんでいた。 総二郎は司の尊大な態度に我慢できず立ち上がろうとしたが、あきらに止められた。
「ここまで追っかけて来るとは、よほどのことなんだろうな?」
「そうだ」
「悪いけど、俺忙しくて時間ねえんだ。 用があるんなら、手短に頼む」
総二郎が立ち上がる前にあきらが司の胸を掴んで顔を殴った。 司はその勢いでソファから床に転げ落ちた。
「何すんだよぅ!」
あきらに掴みかかろうとして、司は横から総二郎に頬を殴られた。 グシャ、と鈍い音がした。 再び床に倒れた司は、唇から血を流していた。 仁王立ちになったあきらと総二郎を司は床にのびたまま見上げた。 いくら司でも1対2では敵わない、と諦めた風だった。 殴られる理由も分かっていた。

あきらと総二郎は司の手を取って立たせた。 司はされるままにソファに腰を下ろして二人を見上げた。 司の目からは挑戦的な光は消えていた。
「お前、牧野とは何があったんだ?」
あきらの口調から、返事をはぐらかすことは許されないことが司に伝わった。
「別れたよ」
「なんで?」 総二郎が畳みかけるように尋ねた。
「牧野が別れるって言うから」
「お前、結婚したんだって?」
あきらが言った。 総二郎は初耳だった。 驚いてあきらを見た。 司も苦笑いを浮かべてあきらを見た。
「おい、あきら、何言ってんだ?」
「ああ、してたけど、離婚した」 司の答に総二郎は耳を疑った。
「何だと? も一遍言ってみろ」
総二郎には何がなんだかわからなかった。 こんな展開は予想もしていなかった。 あきらは知っていたのか? 思わずあきらを見たが、あきらは無表情だった。
「司、何があったかちゃんと言えよ。 いい加減な返事は許さないからな」
「分かってるさ」
司の顔に辛そうな表情が浮かんだ。 いつも尊大で自信満々な司が二人に見せる初めての苦悩の表情だった。

司は浮気をした。 一回だけ、酒に酔った勢いで、目が醒めた時にはベッドの隣には女がいた。 二人とも素っ裸だった。 すぐには事情が呑み込めない司は目をこすってよくよく見ると、隣にいたのはアメリカで司の秘書をしている女だった。 司には前夜の記憶がなかったが、状況から察するに、何かがあったことは認めざるを得なかった。

つくしに対する自責の念で司は頭がおかしくなりそうだった。 これまでどんな誘惑に会おうと振り切って来た。 つくし以外の女に関心はなかった。 他の女と寝る気など起こしたことがなかった。 混乱した頭で考えたことは、つくしには絶対に知られてはならない、ということだった。 秘書を叩き起こして部屋から追い出した。 それで終わりのはずだった。

日本に帰った司は何事もなかったかのようにつくしと接した。 いや、そうではなかった。 つくしを求める気持ちは前より格段に激しくなっていた。 あの夜の過ちに対する罪悪感からとは思わなかった。 その結果、結婚を急いだ。 まだ早いと渋るつくしをなんとか説得して数ヵ月後には結婚することを承知させた。 その結婚に先立ち、一緒に住もうと言ったが、これは拒否された。 それでも二人の将来は安泰のはずだった。 問題は、その秘書がたった一度の過ちで妊娠したことだった。

その知らせはアメリカにいる道明寺楓からもたらされた。 秘書が楓に泣きついたのだ。
「お前がそんなにバカだとは思わなかったよ」
司の話を聞いて総二郎は呆れた。 道明寺司とあろうものが、なんと無防備だったことよ。 司の妻の座を狙う女は世界中で罠を仕掛けて待っている。 そんなことも分からない司ではなかった筈だ。
「ああ。 一生の不覚だ。 まさか妊娠するなんて。 今さら悔やんでも遅いけどな」
「それで牧野は許してくれなかったんだな、お前の浮気を?」
「ババアにやられたんだ。 ババアが牧野に言いやがった」

「司はある女の人を妊娠させてしまいました。 責任を取るため結婚させます」
つくしは楓から突然電話でそう言われた。 最初は楓の入っていることが理解できなかった。 日本語で話して貰えませんか、と言った。 あたしには早口の英語は分かりません。 電話の向こうで少し沈黙があった後、再び楓は同じことを言った。 つくしの頭に入るよう、ゆっくりと噛んで含めるように。 その意味するところを脳が受け止めても、心がついて行かなかった。 夢にも考えられない事態だった。 身体が震えて立っていられない。 両手を身体に回して震えを止めようとしたが悪寒が激しいことが分かっただけだった。 座ろうとしたが足がもつれ、床に倒れた。 それでも震えは止まらない。 目を上げると天井がぐるぐる回っている。 つくしはミミズのように床をのたうち回った。 そのうち目の前が真っ白な靄で覆われ、何も見えなくなった。 白いものが急に黒い渦に変わり、つくしは意識を失った。

床に倒れているつくしを発見したのは司だった。 驚いてつくしを抱きあげ名前を呼んでいるうちに、つくしの意識が戻った。 安心してつくしを抱きしめようとする司の腕の中でつくしは暴れた。 司の力ではどうしようもないくらい、どこからそんな力が出てくるのか司には分からなかった。 驚いている司の腕から逃れたつくしは部屋の隅に逃れ、怖ろしいものでも見るように司を見た。 隅でうずくまるつくしの元に行ってやっと聞き出したのが、「お母様から電話があった」ということだった。 司はそれを聞くとすぐに楓に電話して、初めて秘書の妊娠を知らされた。

「道明寺家の血を引く子供を身ごもったとなれば、放っておけません」 そう楓は言った。
「いつ離婚してもいいから、ひとまず結婚しなさい、これは命令です」
妊娠だと? このババア何を言ってやがる。
「そんなこと信じられませんね。 結婚するなんて、何を言ってるんですか。 あの秘書だって僕に牧野という恋人がいることは知ってたはずです」
司は楓の理不尽な命令に従う気はなかった。 急に妊娠という言葉を告げられても現実感がなかった。
「あなた、あたしの孫を私生児にするつもりですか!」 有無を言わさぬ楓の口調にも、司はひるまなかった。
「もし本当に妊娠したのなら、子供に対しては責任を取ります。 だからと言ってあの女とは結婚できません、どんなことがあっても。 勘当されようが、殺されようが。 僕が結婚するのは牧野つくしだけです。 過ちは犯しましたが、他に愛している女がいるのに、あんな女と結婚できるわけがありません。 これは僕の人生です。 あなたにとやかく言われることではありません!」
司はとうに切れた電話に向かって怒鳴っていた。 つくしは部屋の隅で丸くなって耳を塞いでいた。

その後、つくしに何と言ってもつくしは頑として聞き入れなかった。
「その人と結婚すべきよ」
つくしの口からはその言葉しか出て来なかった。 その次から言いだしたのは、「その人と結婚しなければ、あたしは一生道明寺を許さないからね」ということだった。
「何とか解決方法はある。 俺はお前以外の女とは結婚する気はないからな」
司も頑固にそう言い続けた。 楓からは善後策の検討のためアメリカに来るようにとせっつかれた。 仕事もあった。 司はつくしにすぐ帰るから、と言い残してアメリカに発った。 その後、つくしは司の前から姿を消した。

つくしの失踪を司は楓の仕業だと思い込んで楓を責めたが、こればかりは楓の関知しないことだった。 その後手をつくして探したが、つくしの行方は分からなかった。
「俺たちは突き止めたぜ、牧野の居場所。 お前だって本気で探せば」
総二郎はそこまで言って、はたと気が付いた。 総二郎だけではない、あきらも、司も。
「ババア・・・」
司は一言そう言うと絶句した。 あきらも総二郎も頭を掻き毟る司をただ見ていた。 司はつくしの居所を探していた。 しかしその調査は楓によって妨害され歪められて報告されていた。
「それでお前は諦めて結婚したんだな?」
「ああ。 女の腹がだんだん大きくなって。 牧野は探し出すからとにかく結婚をとババアに急かされて」 司が力なく答えた。 今さら策略に踊らされたことに気がついても遅い。
「で、離婚か?」
「死産だったんだよ。 それも俺の与えたストレスのせいだと責められて。 すったもんだの挙句、相手の欲しがるだけの慰謝料をくれてやって、離婚した」
司は自嘲するかのように気味の悪い笑みを浮かべた。
「それで、牧野だが、どうしてる?」
「司、お前離婚してから探していないのか?」
総二郎は驚きを隠せなかった。 司が結婚してからもう二年も経っていた。
「離婚に手間取った。 それに、離婚したからといって牧野がすぐに許してくれるとは思えないし。 ちょっと時間を置こうと思っていたんだ」
「どこまでもバカな野郎だ。 いいか、牧野はな・・・」
総二郎が先を続けようとするのをあきらが遮った。
「牧野は幸せに暮らしてるよ。 今頃になって混乱させるんじゃねえぞ、司」
「ふん、そのうち俺も日本に帰るから、その時会うよ。 今の俺はあの時の俺とは違う。 絶対見つけ出すさ」
司がそう言っても、あきらも総二郎も何も言わなかった。









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