あの日



(11) ママ?


その女性はあたしと大輔さんを交互に見て、信じられないような表情を浮かべた。 一瞬目を細めて大輔さんを見て、次に大きく見開いてあたしを見た。 その目には怒りとも呼べるような強い感情が見て取れた。
「ちょっと、あなたはどなたですか? この女性をご存じなのですか?」
腕を掴まれ、つくし、と呼びかけられてあたしは怖ろしくて何も言えなかった。 おびえているあたしの代わりに大輔さんがその女性に話しかけた。 その間に、あたしは強く腕を握る見知らぬ女性の手を振りほどいて、大輔さんの後ろに隠れた。
「何してるの、あたしよ、ママよ、つくし! 一体今までどこにいたのよ!」
「ママ? あなたは私のママですか?」
何て間の抜けた質問だろう。 中学校の時にならった "Are you a girl?" と言う文章を思い出した。
「見て分からないの? ママでしょ、つくし!」 その人は冗談はやめなさい、と続けた。
「ちょっと、落ち着いて下さい」 大輔さんが言葉を挟んだ。
「ここじゃなんですから、どこかへ・・・」 そう言って辺りを見回した。 すぐ近くに喫茶店があった。
「あそこに入りましょう」
大輔さんはあたしの手を握って大股で店に向かった。 その女の人も小走りでついて来た。

「一体どういうことなのよ、つくし? ママが分かんないの?」
「落ち着いて下さい。 僕は山野大輔といいます。 ちょっとお話させて下さい」
そういうと、呆気に取られているその女性に、あたしに関するこれまでのことを簡単に説明した。
「記憶障害? それって、あたしのことを忘れているってことですか?」
その女性はあたしと大輔さんを交互に見て、信じられないといった表情を浮かべた。
「それだけではありません。 葉月ちゃんは、あっ、仮の名前ですが僕たちはそう呼んでいます」
「つくしですよ、この子の名前は!」 厳しい顔でその女性が口を挟んだ。
「ひとまず葉月ちゃんと呼ばせて貰います」
大輔さんが聞いたこともないほど強い口調で言った。 その女性も大輔さんの勢いに押されてそれ以上何も言わなかった。
「葉月ちゃんはご両親のことは言うまでもなく、自分自身のことも思い出せないのです。 ですから、あなたが急にママだとか、つくしとか言う名前を仰っても、僕たちにはそれが事実かどうか分からないのです」
「つくし、何てこと。 ああ・・・」
俯いているあたしにも、その女性があたしを見つめていることが分かった。 視線が痛いほど突き刺さった。
「まさか、本当にママのこと・・・。 信じられない・・・」
あたしが視線を上げると、その女性の目から静かに涙がこぼれているのが見えた。 次から次へと涙は止まることを知らず、そのうちその女性は顔にハンカチを当てて、小さな泣き声を不規則に漏らした。 あたしは不思議なものを見るような気持ちでただ見守るしかなかった。

あたし達は黙ってその女性を見ていた。 そのうち次第に泣き声が止まり、女の人は顔から手を離した。
「あたしのことを忘れたなんて、まだ信じられませんが、それで納得できることもあります」
その言葉はあたしにではなく、大輔さんに向かって言ったものだった。 事態を把握したのか、冷静な言い方になっていた。 以外に賢明な人だ、とあたしは思った。  ここで感情的になって喚かれたりしたら、あたしは耐えられなかっただろう。
「それじゃ、そちらのご事情をお話しいただけますか?」 そう促す大輔さんの声にも優しさが感じられた。
「この子はあたしの娘で、牧野つくしと言います。 あたしたちは東京に住んでたのですが、パパの、主人の転勤であたしと主人は札幌に来ました。 こちらに来て半年ほど経った頃、色々ありまして・・・」
そこで、あたしのママだと言うその女の人の声が小さくなった。 暫く何も言わずに俯いていた。 その沈黙の間に再び涙が溢れて来たようだった。 そして思いきったように顔を上げると、きっぱりと言った。
「ここで話すのもなんですから、今から私のアパートにいらっしゃいません? この子が私たちの娘だという証拠もお見せします」
「どうする?」 大輔さんがあたしを見た。 あたしは黙って頷いた。

アパートの部屋に入った途端気がついたのは立ちこめる線香の匂いだった。 入口からすぐに見えるリビングらしき部屋にまだ新しい小さな祭壇が見えた。 丸顔の男の人の写真が飾られていた。
お構いなく、と言ったが、女性はあたし達にお茶を出した。 並んで座る大輔さんとあたしの前に、女性は祭壇を背にして正座した。 写真立ての男の人に目が行くが、何の記憶も浮かばない。 多分これがあたしの父親。 えっ、父親は死んだの? それも最近?

「あっ、これですか?」
あたしと大輔さんの視線の先が写真にあることを知って、女の人が言った。
「亡くなった主人です。 交通事故でした」
「それはどうも、ご愁傷さまで・・・」
大輔さんは機械的にこのような場合に言うべき言葉を言った。 見ず知らずの人の死に何の感慨も浮かばなかったが、あたしも大輔さんに倣って頭を下げた。
「さっきも言いましたが、私たちは東京に住んでいました。 そうだわ」
女性は立ち上がって隣の部屋へ入って行った。 残された大輔さんとあたしは言葉を交わすこともなく、黙って部屋を見回した。 あの女性の暮らしぶりがしのばれる。 家具はあまりないがきれいに片付いている。 祭壇に飾った花は新しい。 豊かな暮らしをしているとは思えないものの、綺麗好きであることは確かだ。

そのうち、女性が戻って来た。 手にはアルバムを数冊持っていた。
「ご覧下さい。 主人と私、それにつくしと弟の進です」
ディズニーランドで撮ったと思しき写真が貼ってあるところを開けて、女性がそれぞれを指さしながら説明した。 男性は祭壇の写真立ての人で、女性は目の前にいる人、そしてあたしの知らない若い男の人。 その隣で楽しそうに大きな口を開けて笑っている若い女は、あたしにそっくりだった。
「これが家族4人で撮った一番新しいものです。 それから、これは・・・」
そう言って別のアルバムの最初のほうのページを開けてあたしに差しだした。 あたしは黙って受け取ると、大輔さんと一緒に最初のページから順にアルバムをめくって行った。 赤ん坊の写真、四つん這いになった女の子の写真。 ページをめくるごとに、少女が少しずつ成長していく時間を追って行くことができた。 確かに徐々に現在のあたしの顔に近付いて行っている。 小学生らしき頃から、隣に優しい顔の女の子が登場して来るようになっていた。 あたしの友達だろう。 中学校の卒業式らしき写真の後、高校の制服を着たあたしと目の前の女性が校門の前で立っている写真のところで、あたしの手が止まった。 女性は晴れがましい表情を浮かべているが、その隣に立つあたしは戸惑っているようだ。

「ああ、それはね、英徳の入学式の時のものなのよ。 覚えてないの?」
あたしは覚えていなかった。 それでもここに写っている女の子は紛れもなくあたしだった。 髪の毛をお下げにしたあたしがいた。 その後、写真は急激に少なくなり、大人になったあたしの写真はほとんどなかった。
「高校に入った頃から、写真を撮らなくなったのよね。 お友達に写真嫌いな方が多くて」
あたしのママだと名乗る女性はそう言って写真の少なさを説明した。 大学生だろうか、全員がてんでにふざけた格好をして写っている写真が1枚あった。 女性ばかり4人の写真だが、そのうち一人はこれまでにもあたしと一緒に写っている女の子で、もう一人はあたし。 あと二人は初めて登場する顔だった。 二人とも目鼻立ちの整った飛び切りの美人だった。 あたしにはこんな綺麗な顔の友達もいたのだろうか?

「つくし、あんたの臍の緒だってあるのよ、見せましょうか?」
「それじゃ、お願いします。 葉月ちゃんがあなたの娘さんだと言うことは、おそらく正しいでしょうが、念のため」
大輔さんが言い終える前に、その女性が立ち上がって再び隣の部屋へ消えるとあたしは言った。
「臍の緒なんて、誰のものでも同じでしょうに。 あたし見分けがつきません」
「念には念を入れるんだよ」
臍の緒を見るのは一種の儀式のようなものでしかなかったが、あたしはその女性の実直さと大輔さんの慎重な性格を知った。
「葉月ちゃん、いいえ、つくしさんが伊藤さんに発見されたのは8月5日のことです。 その頃何があったか、教えて頂けますか?」
まだ臍の緒に見入っているあたしをおいて、大輔さんが女性に言った。
「はい。 話は長くなります。 どうぞお楽になさって」
それまで大輔さんもあたしも正座をしていたことを忘れていた。 その女性も膝を崩すと、あたしが想像もしていなかったことを話し始めた。

「8月3日の夜遅くに主人が交通事故に遭い、亡くなりました。 その時はこの子はまだ東京にいたのですが、4日の朝早くにこちらに来ることになっておりました。 ところがいくら待っても現れませんでした」
女性の言葉遣いが丁寧なのは、おもに大輔さんに向かって話しているからであった。 あたしに言っても通じない、まるであたしが日本語を理解しないとでも思っているようだった。

あたしは黙ってはいたが、女性の言っていることは全部理解しようとしてしっかり聞いていた。 あたしは8月5日に卓郎さんに会ってペンションに引き取られた。 それではあたしの「強いストレス」とは、父親が死んだことだったのか?
「その前に、この子はある男性と長いことお付き合いをしておりました。 結婚の約束も早くからしておりました」
そこで女性は言葉を切ってあたしを見た。 あたしはどんな顔をしたらいいのか分からず、大輔さんと顔を見合わせた。 あたしには恋人がいた。 そのことも他人ごとのように聞こえた。

「あのー、あたしは幾つなんでしょう?」
「年も分からないの?」 女の人はあきれたような顔をしてあたしを見た。 非難するような響きを感じたのは、気のせいだろうか?
「何も覚えていないのです」 大輔さんがあたしを庇うような言い方をした。
「そうだったのね。 ごめんね、つくし。 ママ、ついつい焦っちゃって」
「いいんです」 あたしは簡単に言った。 この人が本当にあたしのママだとしても、あたしには懐かしさはまだ感じられなかった。 今日初めて会ったどこかのおばさん、という印象しかなかった。
「それで?」 大輔さんが先を促した。
「えっ? ああ、この子の年齢ですか? 24歳です。 今年の12月で25歳になります」
「それで、そのお付き合いしていた男性ですが?」
「はい。 高校時代からのお付き合いでして。 そろそろ結婚かと考えていたのですが・・・」
そこで女性は言葉を詰まらせた。 先を言うのを躊躇していた。 あたしも大輔さんもじっと女性の顔を見て、話の続きを待った。 その女の人はあたしの顔に何かの変化を求めたようであったが、諦めたように溜息を深く吐くと、思い切ったように話を続けた。

「別れたんです。 7年も8年もお付き合いをしていましたのに。 ええ、その間もそりゃ色々ありましたよ。 この子も諦めようとしたこともありました。 障害が大きかったものですから。 それでもお相手の方が熱心で、最近はあちらのお母様も賛成して下さって、そろそろ婚約を、と言って下さいましてね。 私たちは、というのは主人と私なんですが、玉の輿だと喜んだ時期もありましたが、結婚が現実のものとなり始めますと、それはそれで心配になることもありました。 なにしろ身分違いと言いますか・・・」
「今どき身分違いだなんて・・・」
あたしは呆れてついついそんなことを言ってしまった。 あたしの言葉に女の人は驚いた表情を浮かべてあたしを見た。 それからまた溜息をついて、再び話を始めた。

「順調に行っていましたのよ、お付き合いは。 それが7月ごろになって、急にこの子がお付き合いを止める、と言うようになりまして。 あちらの方は絶対に別れないと言うし、この子は結婚はできないと言うし」
「理由は仰ってましたか?」
「それが詳しくは言わないものですから。 この子にはそんなところがありましてね。 親に心配をかけるようなことは一人で胸の内にしまってしまうんです」
女の人は力なくそう言うと、悲しそうな顔をしてあたしを見た。 すっかり乾いていた目を涙が再び潤した。

「ねえ、つくし、何か思い出した?」
その女の人は、あたしが恋人と別れた経緯、その後札幌で一緒に暮らすはずだったこと、直後に父親が急死したことなどを言った後、真剣な表情であたしを見た。 ショッキングな話であったが、あたしな何一つ思い出せなかった。 あたしは力なく首を左右に振った。
「何言ってんの、あんたのことでしょうに!」
拳を座卓に強く振り下ろした。 どすん、という音と共に茶卓が上下に揺れ湯のみが倒れてお茶がこぼれた。 その女性ははっとして、慌てて布巾を取りに流しへ走った。 あたしは大輔さんを見た。 大輔さんは、「いいんだよ」とあたしに言って倒れた湯呑を元に戻した。
「あの人があたしのママ・・・」
「いいから」
大輔さんはあたしの背中を軽く叩いた。 あたしはあの人のためにも、何かを思い出さなければならない気がした。
「ごめんなさい、あたしったら・・・」
その女の人は謝りながら急いで座卓の上を拭いた。 あたしを急かせたことを謝っているのか、取り乱してお茶をこぼしたことを謝っているのか、あたしには分からなかった。

「こんな時間・・・」 大輔さんが腕時計を見て驚いたような声を上げた。 そう言えば、それまで差し込んでいた西日が急に衰えていた。 部屋の中が薄暗くなって来たことにそれまで誰も気づかなかった。
「僕たち帰らなければなりません。 どうですか、夕食を済ませて、ご一緒にペンションへ行きませんか?」
話のあらましは終わっていたが、これで何かが解決したわけではなかった。 あたしはこの人があたしの「ママ」であることに慣れて行かなければならなかった。 「ママ」もあたしと一緒にいて、あたしが「牧野つくし」に戻るのを待たなければならない。









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