あの日



(9) 遭遇


病院では脳波の検査、カウンセリングを済ますと、催眠療法を受けた。 あたしは何も思い出さず、ただ疲れただけだった。 医者は焦っても何も効果はないから無理をしないようにと、前と同じことを言うだけだった。 薬物療法もある、と言われたが、あたしはその気にならない、と断った。 今のままでもいいという気持ちがあるので、踏ん切りがつかないのだ。
病院のロビーでは、大輔さんが熱心に雑誌を読んでいた。 あたしが軽く肩を叩くまで、気がつかないほど夢中になっていた。
「おっ、葉月ちゃん、もう終わったの?」
「何を読んでるんですか、そんなに熱心に?」
「ああ、これ? 葉月ちゃんを待ってる間、向かいの本屋で買ったんだ。 何でもないよ」
そう言って読んでいた雑誌をバッグに仕舞った。
「腹減った? どっかで食事でもして、帰ろうか?」
「はい」
「じゃあ、俺の知ってるとこでいい?」
大輔さんは札幌に住んでいるので案内を任せた。 車で少し走ると、前に何台か車を停めることができる店に着いた。
「もんじゃ焼き?」
「ああ、卓郎おじさんとこではまず食べられないだろう?」
大輔さんは、あたしが恐らく東京から来た、と聞いて気を利かせたのだろう。 もんじゃが焼き上がるまで、それからはそれを食べながら、大輔さんは卓郎さんやペンションのことをあたしに話してくれた。

「実は僕も卓郎おじさんにはあんまり会ったことなかったんだ。 おじさんは大学を出るとすぐに東京の会社に就職したし、村に帰って来ることもあんまりなかったから。 それでも親しみを感じるのは、親父やお袋から話だけは子供のころからたっぷり聞かされていたからだろう。 親父は、『俺にもしものことがあったら、お前と夏代さんを頼めるのはあいつだ』って言うのが、酔った時の口癖でね。 卓郎おじさんも、独身が長かったし。 子供心に、親父が死んだら俺は卓郎おじさんの家の子になるんだ、って思いこんでた」
大輔さんの話は、初耳だった。 山さんと卓郎さんの仲がいいのは知っていたが、そこまで心を許した仲とは知らなかった。
「おじさんは40代半ばまで結婚しなかったんだ。 俺、もしかしてそれはうちのお袋に未練があって、他の女とは結婚できないのかな、って思ってた頃もあったんだ。 親父やお袋には言えなかったけど、鉄さんに尋ねたことがあるんだ。 親父の初恋の相手はお袋だってことは知ってたけど、もしかしたら卓郎おじさんもそうじゃないかな、って思って」
「それで、山さんは何て言ったんですか?」
「『この辺りの男全員が、高校時代は夏代さんに恋をしてたよ』って。 卓郎おじさんが独身なのは、お袋を諦め切れないからなのか、って訊くと、まさか、って言って笑ってそれ以上は何も行ってくれなかったけどね」
「でも、卓郎さんは弥生さんに会って結婚したじゃありませんか」
「そうだよね、俺が大学を卒業した年だったけど、俺はほっとしたよ。 そして結婚して5年くらいでこちらに帰って来て、あのペンションを始めたんだけどね。 正直言って、上手く行くかどうか、俺の親父も危ぶんでいたよ」

「繁盛してますよ。 ペンションとしては結構贅沢なお部屋の造りとお料理ですけど」
「そこが当たったんだよね。 何もない森の奥で贅沢なひと時を、ってコンセプトが。 驚いたよ、あのおじさんにそんな才覚があっただなんて。 何しろ農家育ちと言っても大学卒業後はずっとサラリーマンをしてただろう? 定年までまだ10年もあるというのに、その上結婚してまだ5年にもならないのに、東京育ちの奥さんを連れて、こんな田舎に引っ込んじゃんだからね」
「都会暮らしに疲れたんでしょうか? 今の卓郎さんは生き生きしてるみたいですけど」
「さあ、どうかな。 帰って来た頃の卓郎おじさんは、張り切り過ぎて無理してるみたいだった、って親父は言ってたけどね。 弥生さんだって、最初の頃はあんなじゃなかったらしいよ。 だからお袋は嫌がる弥生さんを無理やり連れて来たんじゃないか、って心配してたんだ。 いつ弥生さんが田舎に飽きて東京に帰るって言いだしてもおかしくない、って今でも言うくらいだからね」
「あら、弥生さんもとてもこちらの生活が合っているみたいじゃないですか。 明るくて、てきぱきして、ペンションのお仕事とても気に入っているみたいですよ。 それが証拠に、お父さんまで呼び寄せて、一緒に住んでるじゃないですか」
「そうだろ? 俺だってお袋の言ってることは理解できないよ。 だけどね、お袋が言うには、最初の頃は無口で引っ込み思案で、ちょっとおどおどしてるようなところもあったんだってさ」
「信じられませんね。 全く別人の話を聞いているみたいです」
「弥生さんも都会の生活に疲れてたのかも知れないね。 こっちの生活に慣れるに従って、生気が出た来たんだろう。 よかったよ、って親父は言ってるよ。 卓郎おじさんのためにも、弥生さんのためにも」

大輔さんの話が終わる頃、あたし達はもんじゃを殆ど食べつくしていた。
「あのね、うちのアイスクリームを卸しているとこがあるけど、行ってみる?」
「もちろん」
卓郎さんが、山さんとこは企業だ、と言ってたけど、乳製品を作っていることは知らなかった。 知らないことはたくさんある。 これもたくさんのうちの一つにすぎない。
「うちの伯母の店でね。 母方の伯母だけどね。 うちの親父は一人っ子だから」
「あら、山さんは一人っ子で、大輔さんも一人っ子なんですね?」 あたしは何の気なしに言ったんだが、大輔さんは可笑しなことを聞いたかのように、クスッと笑った。
「実は祖父さんも一人っ子でね。 ひい祖父さんもだよ。 代々山野家は男が一人生まれるとそれで終わり、ってことらしい。 だから親父は俺によく言うんだ。 『大輔がどんな女と結婚しようと反対はしない。 だけどできることなら多産系の家の娘を選んで欲しいな。 俺はたくさんの孫に囲まれて老後を送りたいからな』ってね」 山さんのものまねをしながら大輔さんは神妙な顔をして言った。 あたしは思わず笑ってしまった。 声を挙げて笑うのは久し振りのような気がした。 「いいね、葉月ちゃんの笑い声。 初めて聞いた」 大輔さんにそう言われて、あたしは顔が熱くなった。 真っ赤になっていたに違いない。

大輔さんの伯母さんのお店である喫茶店は、若い女性向けの明るい色調のインテリアで統一されていた。 本屋の二階にある広すぎず、狭すぎずといった店だった。 外の通りの街路樹が広いガラス窓を一杯に覆って、一瞬森の中にいるような錯覚に囚われる。 今ではあたしには見慣れた景色でも、都会の人を驚かせ和ませるのだろう。 伯母さんはいなかったが、働いている人は全員大輔さんを知っていた。 みんなが愛想よく大輔さんに挨拶した。 お客さんは女性中心で、男性は女性に連れられて来た人たちだろう。 あたし達は席に空くのを少し待ち、ほどなく窓際の席に案内された。
「葉月ちゃんには珍しくもない眺めだね」 大輔さんはそう言ったが、あたしは緑のある景色に飽きるということはない。
メニューにあるアイスクリームから、大輔さんお勧めのバニラアイスクリームを選んだ。
「バニラ味がアイスクリームの基本だからね。 これが美味くないと、そこのアイスクリームは失格だ」
「大輔さん、男の人なのに、甘いもの大丈夫なんですね?」
「うちのは甘みは強くないんだよ。 でも正直言って、甘過ぎるのは苦手。 たくさんは食べられない」

大輔さんの言っていたのは単なる自慢ではなかった。 まろやかで濃い味なのに、甘さも軽く、しつこくない。 一口で材料のミルクの美味しさが口の中に広がる。 卓郎さんのペンションも自家製のアイスクリームを出しているが、ミルクは山さんとこのだ、と卓郎さんが言っていた。 その卓郎さんのアイスクリームとはまた違う美味しさだわ、と大輔さんに言った。
「卓郎おじさんとこのは、食事が終わってから食べるデザートだからね。 この店のはアイスクリームが主役だから」
あたしはアイスクリームの美味しさに、あるいはその前のもんじゃかも知れないが、珍しいものを食べたお陰で、気持ちが軽くなっていた。 大輔さんに大分打ち解けてきた。
「あのね、さっき読んでた本、医学雑誌でしょ?」 大輔さんは返事に困っているようだった。 それでも「どうして分かったの?」と言ってにこっと笑った。
「あたしの記憶喪失のこと、載ってたんでしょ?」
「ああ、特集記事でね」
「いいんですよ。 あたし分かっているし、隠してもいないし」
「そうだね」
「あたしの病気は解離性障害、解離性健忘、解離性遁走」
「そうだってね。 卓郎おじさんから聞いたよ」
「俗に言う記憶喪失」
「ああ」
「耐えがたいほどのストレスが原因と考えられる」
「うん」
「克服しがたい問題に直面できず、自我を現実から解離させる」
「・・・・・・・・・」
「数時間、数日間で治ることが多いが、数年間かかる場合も稀にはある」
「・・・・・・・・・」
「患者を責めたり、からかったり、問いただしたりしてはならない」
「記事に書いてあった通りだよ。 よく知ってんだね」
「自分のことですもの。 あたしの場合、数カ月経過しても、まだ治っていません」
「諦めてるわけじゃないだろ?」
「なるようになる、って思ってます。 突然記憶を取り戻すことがあるんですって」
つくしは他人事のように言った。 大輔はその言い方が気に掛かった。

「そうは言っても不安じゃない? 自分が誰だか分かんないと。 あっ、ごめん、こんなこと訊いちゃいけないんだよね。 でも今の葉月ちゃんを見てたらあんまりしっかりしてるんで、大丈夫かなと思って、つい」
「いいんです。 あたし、不安じゃない、って言ったら嘘になるかも知れません。 でも焦ってもどうなるものでもないし。 自分が誰なんだろうと考えて不安になる時期は過ぎたみたいです。 しばらくはこのまま卓郎さんや弥生さんに甘えてお世話になろうかな、って思ってます」
「今の生活も悪くないんだろう? 卓郎おじさんも葉月ちゃんのこと、自分の娘みたいに思ってるようだよ」
「ええ。 このままでも何の不足もありません。 ただ、記憶が戻らないと、あたしに家族や友人がいたら、心配してるんじゃないかな、って。 気がかりと言えば、それくらいです」
「今の環境って、記憶の回復にはうってつけのとこじゃないの?」
「ええ、安らぐし、安全だし。 空気はおいしい、食べ物もおいしい。 周囲の人たちも全員やさしい。 元に戻らなくっても十分幸せです」
大輔さんは、「それでいいのかな」と呟いた。 あたしに聞こえないよう言ったつもりだったかも知れないが。

外の通りに出るとさすがに都会で、店に来る時とは違って通りには人が溢れていた。 人通りの多さにあたしは戸惑った。 月曜日の昼過ぎ、仕事の時間だというのに、これほど多くの人がオフィスから外に出て歩いているのは不思議だった。 この人たちは学校は? 仕事は? 家庭は? 上手く人波をよけ切れず、ぶつかりそうになって、隣にいたはずの大輔さんからあたしはどんどん遅れて行く。 大輔さんが振り返って、立ち止りそうになっているあたしのところに戻ると、肩に手を回した。 「大丈夫?」 あたしは黙って頷いた。 大輔さんはあたしの肩を抱いたまま人混みの中を進んで行く。 あたしを守ろうとしてくれているのは分かるが、あたしよりはるかに長い脚の歩みについていくのにあたしは小走りになる。 息を切らしながらも、もうすぐ駐車場という所まで来た時、前から来た女の人に腕を掴まれた。  その女の人はあたしを見て目を丸くしていた。
「つくし? つくしじゃないの!」









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